人生を生きるに当たって面白いこと。
それは未知の可能性に想像をめぐらせる事。
まだ来ないこれからについての可能性は木の幹から茂る緑の枝のよう。
木事体がその方向に枝を伸ばす事を決めた時。
そこから新しい木の芽が芽生えてまたエンドレスに新しいものが生まれて行く。
例えば先が見えているものはそれが幸せな事象であっても、
不幸な事象であっても、
エンディングが簡単に予知できてしまうだけでそのドラマティックなアトラクションを失ってしまう。
だから人はいつもエンディングを知覚しないように努力する。
パートナーのムートはとてもナイーブなので昨日みた夢は話せない。
冷たい東欧の街の中にある公園に池があった。
何故かそこであまりの水のつめたさに溺れかけていた私。
両親が池のほとりのベンチに座ってそれを見ていた。
なんとか彼らの注意を引こうともがいている私。
溺れている私に気がついて父が池に飛び込んだ。
私の傍まで泳ぎついた父は私の後へまわった。
混乱する中、なんとかして落ち着きを取り戻そうとしている私。
氷のようになって感覚を失ってしまった手足を動かしつづける私。
水面から顔を出していられるように必死にもがいている私。
その私の頭を父は再び冷たい水の中に沈めた。
ほとりに立ってこちらを静かにみつめている母を見る。
彼女は無表情だ。
その後あまりにもがく私に諦めたのだろうか。
父は私を助け二人で池のほとりの母の所まで泳ぎついた。
それが昨日見た私の夢。
最近両親には何度か電話していた。
いつも留守だった。
夢の続きはこうだった。
父と母と公園を出るために歩いている。
私は母に聞こえないように父に言った。
「理由は聞かない。
でもパパは私を殺そうとした。
そしてそれを私は知っている。
でも、ママには言わない。」
彼は無言で首を振ってそれを否定する。
現実の父はとても道徳的な人だ。
とても現実の父があんな行動をとるとは思えない。
でも私は知っている。
父だけではない、そして私だけでも。
誰もが皆、恐ろしく獰猛で無慈悲な心を飼っている事を。
一度その檻の扉を開いてしまったら最後のそれ。
それは決して聖人などいないと思わせる。
完璧なんてものからは到底遠い人間。
それを思って私は少しほっとする。
すべてが完成してしまったものはつまらないと。
完璧なものはどこか悲しいオーラを持っている。
それは想像という一番の自由を封じ込められてしまっているから。
これは私の考え。
でもムートは違う。
ムートはいつでも最高を完璧なものを目指す。
、それらを心から望み、それらを美しいと思っている。
だから昨日みた夢はムートには話せない。
私は完璧ではないムートが好き。
完璧ではない私達の関係を気に入っている。
でもムートは違う。
理想を描き、少しでもその理想に近づくための努力を彼は惜しまない。
そしてやっぱりそれを美しいと思っている。
だから私は出来る限りムートの描く完璧な私像を演じるために努力する。
それはちっとも辛い事ではない。
本当に?
出来あがったものではなくそこへ向かうまでの過程が最高である。
美しいものである。
そう思っている私にとって、それは本当だ。
私はアメーバ。確固たる姿を持たない。
外部の状態に合わせて自分を自在に変化させそこで生きようとする。
そんなアメーバだって素敵だ。
私は一本の発展途上な木。
私からはたくさんの枝が伸びている。
その枝は私が望めばどこまでだって伸びてくれる。
私の枝にはたくさんの違った色の葉っぱや花が咲いている。
実だってなる。
成長した枝は誰かが切り取ったりしないかぎりはずっと私の一部。
たとえ私がその枝を伸ばす事をやめても。
そこにもう新しい葉が生えなくなっても。
枝は私の一部として残る。
人生はそんなものだ。
そして人も。
たくさんの枝、たくさんの葉、花、実がめぐりめぐる。
今までたくさん伸ばした枝。
その幾つかはもう成長していない。
でも私はそれらをいまでも大切に私の一部としてとってある。
それを投げ出してしまう事は簡単だし、潔い事かも知れない。
でもちょっと待って。
一度切り落としてしまった枝はもう2度と戻ってこない。
自分の一部である事を放棄したら、そこでストーリーは終ってしまう。
想像の余地も、奇跡の可能性をもあなたは放棄したいの?
私という木は私だけにしか決して理解されることのない混沌。
そしてそれが私の生きる文脈。